海塚市、立浪小学校五年三組の教室は、放課後を迎えて今日も賑やかだった。
帰り支度を始める者、掃除の支度を始める者。もちろん当番をサボって帰ろうとする者もいる。
「高谷――ッ! アンタ、またサボる気?」
「今日は塾があるんだよ! オレんち遠いし! ほら、首藤だって帰りかけてるじゃん!」
高谷は苦し紛れに手近な友人を道連れにしようという、姑息な手段に出た。
指差された首藤学(すどう・まなぶ)は、色白の生真面目そうな顔にかけた銀縁眼鏡の奥からちらりと高谷を見ると、帰り支度の手を止めようともせずに、淡々と答えた。
「ボク、当番じゃないし」
「冷たいヤツ……」
「……ていうか、さっさと終わらせちゃえば、さっさと帰れるだろ」
「あッ、そうか!」
顔を輝かせた高谷を見て、学は(本当に気付かなかったのか……?)と思ったが、本人はすっかりやる気モードに入ったようだ。
「よおしッ! さくさくやろーぜ、さくさく!」
なんにせよ、やる気になったのなら結構なことだ。学もさくさく荷物をまとめてランドセルに詰め込むと、背中に背負う。
――学校にいると、うるさ過ぎて疲れる。
さっさと塾に行ってしまいたいのは、自分も一緒だった。
駅前の銀行の天辺で、デジタル時計が午後九時に変わった。
衛星都市でも市街地となれば、普通に人通りは多い。こんな時間は、まだまだ宵の口の時刻だ。
とっぷりと暮れたはずの空も、照明の乱反射で妙に明るい。薄ぼんやりとした空の中で、月までもが薄ぼんやりと、見ようによっては投げやりな風情で浮かんでいた。
今や街は何処に行っても、夜など忘れ去ったかのように一晩中明るくて、深夜でも誰かが活動している。
そして、その中には子供だって含まれていたりするのだが。
おりしも煌々と灯りの点った雑居ビルから、一群の子供達が吐き出される。
その子供達の吐く息を白く凍らせて、木枯らしが渡って行った。
「ひゃーっ!」
「寒いっっ!」
勘弁してくれ、と言わんばかりの声があちこちで上がる。
いくら『子供は風の子』と言われても、寒いものは寒いのだ。しかし子供だけにハイテンション、騒ぎまくるモコモコと着膨れた団体は、交わす言葉の割に、妙にはしゃいでいる。
どうやら、騒いでいるうちに面白くなってきたようだ。
彼等を吐き出したビルの屋上に取り付けられた看板から察するに、丁度塾の授業が終わったところなのだろう。
車道を挟んだ反対側の歩道で、駅から続く歩道橋を下りて来たサラリーマンが、同情の眼差しで子供達を見遣る。その意味するところは、
「こんな時間まで大変だねえ、今時の子は」だ。
自分がこんな年頃――小学生の頃は、五、六年生であっても朝から晩まで外で遊んでいたものだが。(そして、しょっちゅう怒られていた)
まして午後九時。夜も十時となれば、自分達にはビックリして、すぐさま布団に駆け込まねばいけないような、大変な深夜だったのに。
――と、おじさんをノスタルジックな気分にさせているが、子供達は子供達なりに、現在を前に向かって生きている。
とりあえず暖を求めて、或いは空腹を満たすために家やコンビニ、ファースト・フード店に向かって子供達は散って行く。
お迎えらしい大人の姿も見えるが、生徒の大半はすぐ近所の住人らしく、自分達だけで帰宅するようだ。
「あれーー首藤? 何か食べてかねーの?」
学は振り返った弾みでズレた眼鏡のブリッジをちょいと指で押し上げて、塾でも同級の高谷に笑いかけた。
「うん、今夜おでんだって言ってたから」
「あー、そりゃ帰るよな」
寒い日の、ぬくぬくのおでんは美味しい。
思い浮かべるだけで、つい顔がほころんでしまう二人だった。
「高谷ンとこは?」
「うち? あー、何だろ。聞いてねえや。カレーなら嬉しいけど」
顔を見合わせて笑う二人の後では、通りのコンビニに入った少年の一人が走り出て来たところ。二人の姿に気付いた彼は、大声でこちらに向かって呼ばわった。
「高谷ー、新しいの、出てるぞー!」
「えっ、ホントー?」
高谷はぱっと顔を輝かせると、学を振り返る。
「ん、いい」
彼の無言の問いかけに学は軽く片手を挙げて断り、高谷は「じゃ」と手を振り返し、コンビニに向かって走って行く。
その先では包装紙から取り出されたばかりの『海洋王・マリンキング』のトレーディング・カードをネタに、盛り上がる一団が出来ていた。
「おー、高谷、これこれ!」
「あれ、シャーキング? でもこの絵、初めて見る」
「なんだ、首藤、来なかったのか」
「集めてないって言ってたしな。腹も減ってたみたいだし」
「腹ならオレも空いてるぞ」
スナック菓子を食べ散らかしながら、少年達は騒ぐ。
その様子は、戸外だというのに寒さのことなど忘れたよう——本当に嬉しそうというか、楽しそうだ。
——たかだかカードくらいの事で、なんであんなに騒げるんだろう。
同い年の男子とも思えぬクールな感想を抱いて、学は背を向ける。
自分も大元になっている漫画やアニメは見ているが、カードを集めるほど夢中になっている訳ではなかったので。
——時々『レア物』とかいう珍しい貴重品が有るらしいけど、それだって印刷されたものじゃないか。手描きだっていうならまだ、解るけど——
駐輪場から愛車を引っ張り出しながら考えていて、ふと思い当たった。
コレクターには、コレクターの価値観がある。所詮コレクターでない学には、理解するのは難しい話だろう。
しかし、他人の持っていない、或いは知らない、珍しいものにこそ価値がある、という考えなら自分にも解る。
——多分、そういう事なんだろう。
そう納得すると自転車に跨って走り出そうとし——そのままの格好で考える。
手袋を、どうしよう。
学は、ハンドルはできるだけ素手で握りたいと思っている。手袋越しだと滑るし、ごわごわして、しっかり握れないような気がするからだ。
しかし、今夜は寒い。
悩んでいると、さっきから塊ってお喋りに興じていた女子グループに声をかけられた。
「ねえねえ、首藤くん水間町でしょ。帰り、どの道通る?」
「梅本内科の角から、三丁目、抜ける。なんで?」
「三丁目って、工事してるとこ?」
「うん」
「ふーん、通るんだ……」
訊いてきた少女は、目を瞠(みは)ると意味ありげに頷(うなづ)く。その顔が妙に嬉しそうなのは、気のせいだろうか。
「……なんだよ」
「幽霊、見た?」
「はあ?!」
「三丁目の工事現場の辺りにね、幽霊が出るんだって。夜遅くなってから」
「遅くって言うより、夜中でしょ」
「工事中に死んだ人、だってよー?」
少女達は目をキラキラさせて、口々に言う。
そりゃあ、幽霊は夜遅くに出るだろう、普通。でも、この冬の最中(さなか)に? それはいくらなんでも、胡散臭すぎると思う。
(女子って本当に、こういう話、好きだよな)
ツッコみたい気持ちは色々有ったが、口に出したのは、
「ゆうれーえ?」
の一言だった。
『れい?』ではなく『れーえ?』、と上がり気味に延ばした語尾が、今の気持ちをあからさまに語っている。
すなわち、「何をバカらしい」と。
たちまち少女達は、むうっと眉根を寄せ、不満顔になる。
「何よー」
「だって、存るハズないじゃん、そんなもの。なんだってそんな、非科学的なコトで騒げるんだよ」
「非科学的?」
「幽霊とかオバケなんて、大抵見間違いか、昔の人が理屈を付けられなかった自然現象なんだぞ。知らないの? 『幽霊見たり、枯れ尾花』って言うだろ?」
すらすらと言い立てられる言葉に押され、少女達は一瞬黙る。
「……そりゃあ、そういうコトも有ったかもしれないけどー……」
「そうよ、全部が全部そうだってワケじゃないでしょ」
「現に、噂になってるわけだし」
そんな噂は、初めて聞いた。
「じゃ、この中で誰か、実際に見た人は?」
ぐっと黙り込んだ少女達に、畳み掛けるように続ける。
「信憑性無さ過ぎるよ、そりゃ。現にボクは見てないし。『存る』って言うなら、せめて証拠見せてよ。そしたら納得するから」
「アンタはロマン、無さ過ぎだわ」
「本っ当に理屈屋なんだから」
「○槻教授か、アンタは」
あんな『人の話なんか、聞く耳持たん!』ようなオッサンと一緒にして欲しくないと思いつつ、幽霊のどの辺にロマンが在るのかは、学にとってトレーディング・カードに夢中になる事よりも量り難かった。
とりあえず、平行線でしかない議論はさっさと切り上げて、帰ってしまおう——しかしそこで、最初の悩みに戻る。
しばし悩んだ後、背負っていたタウン用のデイパックから中ボアの手袋を取り出してはめる。
今度こそ家に向かって走り出した学の背中を、少女達の声が追いかけてきた。
「世の中は、科学で割り切れるモノばっかりじゃないんだからね——っ!」
短いクセっ毛をパタパタ躍らせて、学は自転車を走らせる。
かなりスピードを出しているので、風圧は容赦なく顔を叩き、耳元を駆け抜けて行く。
その冷たさは眼鏡を掛けていても尚、目に染みた。
スピードを緩めれば少しはマシになるのだが、それでは早く帰れない。早く帰るためには、より寒い思いをしなければいけない。
そのジレンマは、妙に理不尽な思いがした。
空腹が理不尽に輪をかけて、ちょっと不機嫌にもなる。
(なんか、納得いかないなあ)
涙目になりながら思う。
しかし何をどう思おうと、根本的な寒さは変わりはしない。学に出来る『ちょっとマシになる事』は、涙を拭いながら自転車を走らせる事くらいだった。
ちりりん、とベルを鳴らして民家の角を曲がる。
塾の在る駅前や表通りと違って、この時間の住宅街は結構暗い。その中でもぽっかりと、穴が開いたようにわだかまっている闇が在る。
ついこの間まで、どこかの会社の寮が建っていた場所だ。マンションになるとかで、現在建替え工事の真っ最中。
その様を右手前に見ながら、見事に無くなっちゃったなあ、と思う。
金属板の塀(?)とシートに囲まれて、瓦礫しかない場所。今は闇に包まれて、本当に何も無いみたいだ。
「——?!」
その闇の中から、更に黒い闇の塊が、地面すれすれに走ったような気がした。
それに気を取られて、前方への注意がお留守になる。再び顔を上げた時には、今度は本当に何処かから現れた人影が、目前に迫っていた。
「だあっっ!!」
慌ててブレーキを握り、ハンドルを切った。
結果、(当然の事ながら)彼は見事にすっ転んだのである。