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風の梢

~“高い高い”の樹~
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#2.


 いきなり呼びかけられ、驚いて少年達も振り返って立ち止まる。
「そうやけど……」
 応える声音も、どこか訝しげだ。
 それには構わず男は親しげに、笑顔で近付いて来る。
「大きい、なったなあ!」
 しかし当の陸には、この男にとんと覚えが無かった。
「なんや、忘れてもたんかいな! よう、『高い高い』したったのに。おまえもしょっちゅう、遊びに来とったやないか」
「うーん……」
 陸も言われて一生懸命記憶をひっくり返すのだが、どうしても該当者が出てこない。そもそも『高い高い』を喜んでいた程昔という事は、いわゆる『物心つく』以前ではないのか? だったら憶えていなくても無理は無い。
 しかし、その大きくてがっしりとした体つきに何やら覚えが有るような……不確定だが。
 まじまじと相手を見て、陸はふと(顔色が悪いな)と思った。
(こんなに大きな人なのに。あ、大きい人でも病気はするか)
 そう思った途端、言葉が口をついて出た。
「おっちゃん……具合、悪いんか?」
「え?」
 唐突に言われて、男も驚く。が、すぐそれは苦笑に変わった。
「ああ……実は最近どうも思わしいのうてな。そんで、ちょっと遠くに場所変えするんや」
「入院? ――と、違うて引越し?」
 笑い顔のまま首を振る男に応えを探していると、隣で陽がボソッと言った。
「『転地療養』」
「――ああ、それ。するん?」
「明日、行くねん。……もう、こっちにゃ帰って来れへんかもしれへんなあ……」
「おっちゃん!」
 幾分慌てて、陸が咎める。
「そんな事言うとったら、治るものも治らへんで! 転地療養、て事は治しに行くんちゃうん? そんなら大丈夫、治るて、きっと!」
 男はいきなり真剣に言い募られて、かなり面食らったようだが、昔なじみの子供は尚も、本当に心配そうに自分を見上げている。
「場所変わったら気分も変わるし、『病は気から』て言うやん!」
 それは違うんじゃないか? とツッコまれそうな事を握り拳で力説するその顔を眺めているうちに、つい微苦笑を誘われてしまう。
「本当に……せやなあ。おおきに、陸坊ん」
 そして陸の頭をぽんぽん、と叩き、その手を頭に置いたまま言う。
「お前は歳を取ってもやっぱり元気な爺さんになって、人を引っ張って行くんやろうなあ……」
 男の目は陸に向けられていたが、妙に遠かった。
 彼の目に映っているのは現在の十四歳の中学生ではなく、成長し、大人となった彼の姿なのだろう。
 豪快で逞しい、そして相変わらず照れ屋でぶきっちょな。それでも信頼を集めている――おそらくはそう成るであろう、陸の姿。

 次いで、男は視線を陽に向けた。
「そっちは神島(こうしま)の坊んやな。祖父ちゃんのとこに遊びに来たんか?」
 そつなくニッコリと微笑って、陽も応える。
「はい」
「おまえも変わったなあ。ピーピー泣いてたのが、ついこないだみたいやのに……大分男の子らしいなってきた」
「やだなあ……」
 やや顔を赤らめて苦笑する陽の頭にも手をやって、男は笑った。
「おまえも、もっと強うなるよ……きっと」

「おい、いかん。つい懐かしいて、話し込んでしもうたわ」
 我に返ったように、男が言った。
「すまんかったな……ほな」
 二人に軽く手を挙げると、男はまだまだせなあかん事が有るのんに、とボヤきつつ立ち去って行く。
 子供達は反射的に手を振り返したが、ふと思い出して、陸はその背中に声をかける。
「おっちゃん――あの樹、まだ有るかなあ?」
「樹?」
 振り返った男は、しばし考える。
「ああ、あの公園の――。有るで、まだ。今んところは」
「良かったあ!」
 嬉しそうに安堵の溜息をつく陸を見、男は思い当たったように微笑う。
「ははあ。また登るつもりやな?」
「へへ」
 陸もまた、ニヤリと笑う。
「大きななりして……まあ、ええわ。この先もう、でけへんやろうしな。心ゆくまで登ってきい」
「うん、そうする」

  「ほな、な。この町の最後の日に陸坊んに会えて嬉しかったで」

「こんにちわーっ」
 神島家に着いた少年達は、挨拶もそこそこに飛び出して行く。
「行ってきまーす」
 流石に荷物は、割り当てられた部屋に放り込んでいたが。その姿を見送って、陽の祖父が溜息を漏らす。
「忙(せわ)しないこっちゃ……ま、久し振りやからしゃあないか」

「あれっ、陸?」
「あ、ホンマ」
 コンビニの前でアイスを食べていた少年達が、走って来る幼馴染に気がついた。
「おーい」
「いつ帰ってきたんー?」
「すまん、また今度――!」
 手まで振って迎えようとした彼らに、当の陸はドップラー効果を残して走り去る。
 上り坂だというのに、えらいスピードだ。
「あー?!」
「なんやねん、コラー―!」
 たちまち起こる、ブーイング。
 そこに、陽が追い着いて来た。
「あー、陽」
「オマエも来とったんか」
「……て、言うか……」
 ボクんち(の田舎)に来たんですけど。
 皆まで言えず、ぜいはあとへたり込んだ陽を見て、一人が言った。
「誰か、何か飲ましたれや」

 樹は、ちゃんとその場所に在った。
(春、ここを離れる前にも来たから……4(しぃ)、5(ごぉ)、6……4ヶ月ぶりか)
 陸はじっと樹を見つめ、指を折りながら考えていたが、おもむろにスニーカーを脱ぎ捨てて登り始める。
 日差しは、もう傾きかけているにも関わらず、やけに眩しかった。そして。
「ふわあ、暑っつう~~~!」
 指定席(いつものえだ)に腰をかけ、流れる汗を腕で拭う。
 やっぱり関西(こっち)の夏は違う。何が違うって、この、そこら中から滲み出て来るような湿気が。
 しかしそれでも。
 改めて街を見下ろして思う、それでもここからの風景は変わらない――まだ。
(有るで、まだ。今のところは)
 唐突に、陸も気付いた。いずれ、この風景は無くなってしまうのだ。
 自分がこの土地を離れたように、街は入れ替わる。新しい人や新しい建物に。
(この先、もうでけへんやろうしなあ)
 後何回かは、こうやって此処に来れるだろう。でも、大人になればもう、流石に樹には登れまい。
 そうしてはなれる時間が増えて、そのうちに、知らない風景に取って代わられる。
 そう思うと、なんだか物悲しい気分になった。

 ざわりと、葉を揺らして風が吹いた。
 さわさわと風が渡ってゆく。
 自分の、とても好きな時間。
 好きな光景。
(ほら、変わらない――)
 そう、まだ。
 今まだ味わえるうちに、(心ゆくまで)存分に味わって――

 そして、憶えておこう。いつまでも。
 大好きだった、この景色を――
(本当に、大きいなったなあ、陸坊――)
 ふと、あの男の声が聴こえたようなきがした。
 しかし誰も居なかった。居るはずもない。
 ここには自分だけ――

「ああッ、陽?!」
 居なければいけないはずの親友を、どこかで落としてきた事に、やっと気付いた陸だった。

 いつの間にか、星が出ていた。


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