風の梢~“高い高い”の樹~ |
#3. |
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「ふーん。それまで思い出しもしなかったんだ?」
「悪かったよ。悪かった、て!」
翌日。朝から二人は公園に向かっていた。
本当はラジオ体操でも、と思ったのだが、最近は煩わしがる人が増えたとかで、子供会とかで集まってやったりはしなくなったそうだ。
そんなわけで、朝食後の散歩である。
公園の、『例の樹』を目指して行った先は、ちょっとした人だかりが出来ていた。
「……?」
「なんや、居るやん、人」
ラジオ体操では無さそうだが。(既にそんな時間ではない)
とりあえず近付いてみる事にする。
「あのー、どうしたんですか?」
陽の問いかけに、作業着の男が一人、振り返る。
「ああ、危ないから近付いたらあかん!」
「危ない?」
その時人だかりの中心からいきなり、甲高い音が上がった。
チェーンソーの回転音。くぐもり、また甲高く、を数度繰り返すと、バサバサと音を立てて大きな影が倒れた。
「古い樹を、切ったんや」
「切った? なんで?!」
足元に地響きを感じながら、陸は目を剥いて男に詰め寄る。
「大分、痛んでてなあ……大きな樹ぃやったし、こけたら危ない、て事で……あ、こら!」
途中から陸は、話など聞いていなかった。そして隙を見て、件の樹の元に走ったのだ。
「あー、やっぱ、白蟻かあ……」
倒された樹を見ながら、男たちが言う。
「うわ、ボロボロやんか! よう今まで立ってたなあ」
「……嘘や」
「あ?」
彼等はそこで初めて、自分達の中に子供が一人混じりこんでいる事に気付いた。
「おいボーズ、どっから……」
「痛んでた、て? ホンマに?」
「おお、ホンマやで。これ見てみい」
どこか上の空で訊く子供に、大人は倒れている樹の姿を示す。
白蟻に食い荒らされ、半ば朽ちた切り株。確かにこれでは、その大きな胴部を支えるのは無理だったろう。それは、まだ充分に葉を茂らせている梢部とは対照的だった。
「ここまで傷んでたら、ヘタしたら鳥が止まっただけでもグラグラするで。もう、寿命やったんや」
「嘘やろ?! 俺、昨日登ったで?!」
「え?!」
今度は大人たちが目を剥く番だった。
「ホンマか、ボーズ?!」
「なんちゅう事するねん、危ないなあ……ロープ、張ったあったやろう?」
「ロープ?」
「立ち入り禁止の。先月から張ったんや。せやから誰も居らへんだやろ? この辺」
陸は昨日の様子を思い返す。
確かに誰も居なかった。でも、ロープなども無かった。だからこそ自分は……
「誰か外しよったんかな」
「せやけど今朝は有ったやろ、ロープ」
「あ、そうか……ホンマに登ったんか?」
(そんなはず、ないのに)
自分は昨日、確かにあの樹に登った。そして風の音を聞いて――
黙りこんでしまった陸の手を、誰かが後からぐいと引いた。
陽は何も言わずに、陸をその場から引っ張り出して、どんどん歩いていく。陸はその場に心を残しながらも、黙って陽に引かれて行った。
ぷしっ、と音を立てて、陽は冷えた缶紅茶のプルタブを引く。それを口に運びながら、ちらりと陸を見るが、親友はベンチに座ったまま黙りこくっていた。
伐採現場から引きずって来てから、陸はずっとそうしている。
開封はしたものの、呑むでもなく手に持ったままの缶の中身は、いずれ温くなってしまうだろう。
(それはまあ、いいとして)
彼が座っているベンチは太陽の動きにつれて、木陰から外れてしまった。このままずっと座って居るつもりなら、日射病とかの心配をせねばいけないかもしれない。
彼が意識を無くした場合、見かけ通りの文系で非力な自分が、この見た目も中身も完璧に体育会系……を通り越してガテン系の図体を、文字通り引きずって移動するのは……
(ちょっと、しんどいかも)
などと考えていると、ようやく陸がぼそりと言った。
「……誰やったんやろ」
「え?」
「商店街で会うたおっちゃん。どうしても、思い出せへん」
「……何をいきなり……」
「昨日樹の上で、声、聞いた気がした。気のせいかもしれんけど。……誰も居らんかったから」
そりゃあ、転地療養をしに行くような病人(しかも大人の、大の男)が、顔見知りの子供を追って木登りはしまい。
「おまえは?」
質問の意味を図りかねていると、「心当たり」と言い足された。言外に、お前の知り合いでもあるのだと促され、考えてみたが、陽にも心当たりは無かった。
年老いて、身体を病んではいたが、本来は大きくてがっしりした男。小さい頃からの自分達を知っているはずの。
ふと陽は思う。
……そのイメージは何やら、別の存在(もの)と重なる。
陽は自分達が先ほど離れた場所を透かし見て、ポツリと言った。
「――僕、とうとうあの樹に登れなかったな」
―了―