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風の梢

~“高い高い”の樹~
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#1.


 パアン! と音を立てて頬が鳴る。
 母の平手(ビンタ)は例え相手が子供といえども、場合によっては容赦が無い。たちまちそれは赤く膨れ上がった。
「……本当(ほんっま)にアンタは! そんなに帰って来んのが嫌やったら、ずーっと外に居(お)りい!」
 ほらほら、と腕を取り、母はそのままズルズルと我が子を外まで引きずって行く。その勢いでピシャリと引き戸を閉めて、ご丁寧に鍵まで掛けた。
 こうなったら、しばらくは開けてもらえない。

 仲の良い友達と遊んでいて時間を忘れた。
 子供にはよくある事である。
 それ以前に、由緒正しい腕白坊主である子供にとってはこんな事は日常茶飯事で、それでも行状が改まっていないのだから、ほとんど母子で根競べのようなものだった。
 今日も、意地を張った結果がこれだ。
「……しゃあないな」
 彼はしばらく玄関先に立っていたが、くるりと踵を返すと、ゴム草履をぺたんぺたんといわせながら歩き出した。
「……いつもンとこ、行くか……」
 小学校低学年児童としては冷めた行動だが、それがこの「いつもの事」ぶりを物語っている。
 彼がこんな時に向かうのは、公園だ。
 台地に有って坂と階段が多いこの町の、中でも高い位置にある公園は周りを寺に囲まれていて、敷地自体にも樹が多いので一種森のような雰囲気がある。
 その公園の奥にある一本の樹が、彼のお気に入りだった。
 随分と大きな樹でそれだけでも興味を惹かれたのだが、何より好いのはその幹が絶妙な角度で緩やかに傾いていた事だ。
 ――つまり、大変登りやすい角度だったのだ。
 そんな事に気がついて何もしないのは、腕白小僧の名折れというものである。当然、挑戦してみた。
 そして程好い枝に辿り着き、そこから眺めた景色は今も忘れない。
 丁度見下ろす形で眼前に広がる町全体と、それを染め上げる大きな夕陽。それまであんな大きいお日様を見た事は無かったし、あんなに赤い色のお日様も初めてだった。

 それから彼は、しばしばその樹に登るようになった。もちろん大人には内緒だ。

 実際、そこから眺める風景には随分慰められたし、何より風の通る音を聞くのが好きだった。

(――風が 枝を通り抜けて行く)
 さわさわと葉っぱが鳴る。
 音と共に、葉の揺れる位置が移動する。
 あちらへ。
 こちらへ。
(ほら)
 今は そこだ。

「ああ」
 読んでいた原稿用紙から顔を上げ、親友の陽(あきら)が彼を見て言った。
「この樹、憶えてるよ」
 隣の席でシートをリクライニングさせて座っていた西方陸(にしがた・りく)は、やや照れ気味の、意外そうな表情で陽を見返す。
 因みに陽が読んでいたのは陸が書いた作文、この夏休みの宿題の一つだ。
 陽に誘われて彼の田舎に遊びに行く途中なのだが、新幹線の車中で落として散らばらせた宿題を拾われたばかりに、文芸部員である彼の添削指導が始まってしまった。
「おまえ、なにかっていうと、あこに登って降りて来なかった」
 懐かしそうに言う彼が何故そんな事を知っているかというと、これから向かおうとしている関西のその町は、陸の生まれ育った町でもあるからだ。
 再び原稿用紙に目を落とし、続ける陽も当時の記憶を思い返しているようだ。
 当時、自分達は幾つだっただろう。
 小学校には上がっていたはずだが。

「陸(りっ)ちゃんてば!」
 陽が樹上に向かって声を張り上げる。が、陸は応えない。拗ねているのだ。
「一緒に謝ったげるからさあ! 降りといでよぉ!」
「いらんわい!」
 上から負けじと怒鳴り返されて、陽は沈黙する。

「……もう、暗くなるよー?」
 なおも言い募る陽の声に、陸はフン!と鼻を鳴らす。意地でも降りるものか、という気になっていた。
 そして陽は考える、どうしたら、どう言ったらこの友達を地上に降ろせるだろう?
 考えて、考えて、戦法を変えてみた。
「……暗くなると、オバケが出るから――」
(そんなモン、おるかい!)
 陸、心中で即座にツッコミ。
 というか、オバケが怖いのは陽の方だ。
「……陸ちゃあん……」
 困ったような声を残して、再び沈黙。
 それっきり、声は聞こえなくなった。

(……帰ったのかな)
 丸めていた背中を、少し伸ばす。
 陽(ひ)はとっくに落ち、とっぷりと暮れていた。葉の間から、点った灯りがちらちら見える。対して自分の周りは、茂る枝葉に囲まれて暗い。
 ざわざわと葉擦れの音がする。
 日中聞くと楽しいそれも、今はなんだか心細い。なんとなく居心地の悪さを感じて、陸は枝の上で膝を抱え直した。
 突如、突風が駆け抜けて、ゴウッと枝葉が唸る。
(――――!!)
 すぐに元のように静かになったが、心臓はバクバク鳴っていた。
 それっきり木々がざわつく事は無かったが、今度はその静けさが耐え難い。
 結局その直後、樹から降りた。
 するとその根方にしっかりと陽が座り込んで居て、陸の姿を見るなり嬉しそうに言ったものである。
「あー、やっと降りて来たあ!」

「おまえもな」
 当時を思い返しているうちに、笑い出した陸が言う。
「登って来たら良かったのに。ずー――~~~っと下で待っとンねんな、いつでも」
「……登れなかったんだよ」
 幾分顔を赤らめて、陽。
「『た』?」
「……『い』だよ、悪かったよ。はい、今でも登れません!」
 言外に「今は登れるのか?」と問われ、陽は素直に謝る。
 そんな事は、陸にも解っている。この親友は、昔から本当におとなしい子供だった。これは、ちょっとした意地悪だ。
「じゃ、レクチャーしてやる。着いたら、実地な!」
「え?」
 何でそんな話になるんだ、と困惑する陽の顔を見ながら、陸は楽しそうに笑う。

「……いつやったか、親父が、探しに来た事があってん。いつまでも帰って来ぉへんから。誰にも言うてへんかったのに、あんまりあっさり見つかったんで、不思議やったけど。何の請っちゃ無い、親父もあこに登っとってんて」
「……親子だね」
「うん」

 この春中学に上がると同時に父の転勤で引っ越したのだが、その街に幼馴染が住んでいたのは、偶然としてもラッキーだったと陸は思う。
 おかげでこうやって、あの街を訪れる事が出来る。
「でもさ」
 改札を出るなり、陽が言った。
「陸、意外と作文能力有ったんだね――文芸部に来る気、ない?」

 駅前からしばらく続く商店街を男が一人、歩いている。
 彼は買い物客の中で特に目立つ事も無く、そぞろ歩く。散歩の途中なのかもしれない。
 陸と陽も、特に気にもせず喋りながらその脇をすれ違う。
 そのまま三歩ほど歩いて、男はふと顔を上げ、弾かれたように振り返った。
「陸坊(ぼ)ん。西方の陸坊んやないか?」


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